Jinbeiのシャム便り

タイ在住の年金暮らしの専業主夫のジジイで、タイ生活/日記一般を綴っていきます。

母が残したもの

2~3日前ウォーキングの途中で弟から電話があったが、「今外で運動中だからあとで

電話するわ」と言うと、「分かったスゲー写真見付けたから、送っておくから後で見て

電話をくれ」と言われた。家に帰り早速LINEを開いてみると、古い写真が目に入った。

そこには確かに「スゲー写真」が貼られていた。早速弟に電話すると、「オフクロの

アルバムまだ片付かなくて、ゴミとして出そうと思ったが写真をそのまま捨てるような

もので、困ってアルバムから剥がして家で燃やそうと思ってやり始めたら出てきた。

オフクロ(右)が19歳で叔母さん(すぐ下の妹)が17歳と書いてあった。こんな写真

初めて見たけんど、スミエちゃん(叔母の娘)が前にユッテタけんど、『アンタちん

叔母さん(オフクロのこと)は若い時分はすっごく綺麗で、近所でも有名ですごく

モテたってうちのオカアチャンが言ってた』ことを思い出した。だけんどこんなアル

バムそのまま残されたって、片付ける方が大変だ」と半分愚痴であるが、最後には

「オフクロ本当に綺麗だったんだな~」と言っていた。私もこの写真は初めて見た。

さてその翌日のこと、またまたLINEで今度は古い履歴書が送られてきた。弟に電話を

入れると「もう故人だから個人情報もへったくれもないと思うけーが、それでも

こんなものゴミで出すのも気が引けるけんど、取り敢えず送っておいた」と、また半分

愚痴になりそうなので早々に礼を言って切った。しかし古いものが出てきたものだ。

半紙に筆で書かれたものだが、達筆だったんだな~と感心してしまった。書かれたのが

昭和30年とあるから、市立病院に地方公務員として応募した時の控えなのだろうが、

私が小学校2年のときである。

こうやってオフクロの昔を改めて見てみると、樺太から始まり東京→静岡県→また東京

→終戦と共にまた静岡県と随分と波乱にとんだ人生だったようだ。樺太はオフクロの

親爺(つまり私の祖父)が鉄工所をやっていたそうで、この話は小さい時に聞いた

ことがある。そして祖父の夢はブラジルに行くことだったとも言っていた。

東京の目黒や蒲田とあるのは祖母(祖父の顔は知らないが、祖母の顔は覚えている)の

兄弟のところに預けられたらしいが、小学校高等科(中学)を出た後も勉学には強い

意思が働いていたのだと思う。

ところで私には父親の思い出はなく、母親の思い出だけで母の背中を見て育ったという

思いしかない。母はバツイチだが、上の昭和28年(母が28歳で私が5歳の時)

から親子3人の生活が始まった。

話は一寸横道にそれるが、ジブリ映画「天空の城ラピュタ」の主題曲「君をのせて」に

♪父さんが残した熱い想い、母さんがくれたあのまなざし♪とあるが、私にしてみれば

♪母さんがくれた熱い想い、母さんがくれた強い意志♪しかない。

母が熱を出して動けない時には私が家事を手伝うしかなく、小学校2年になった頃

には、釜で飯炊きができるようになり、味噌汁の作り方も教わっていた。

弟ではないが、アルバムやら昔の物などいつまでも持っていても、私に何かあった時

残された方が大変だということはよく分かる。オフクロによく言われた「勿体ない」

も必要だが、思い切った「断捨離」も必要だろうとこの頃思う。

さて今の私だが、まさかバツイチまでお袋から譲り受けたわけではないが、あとどれ

くらい頑張れるだろうか、頑張れるならできるだけ身軽になっておこうと思う。