Jinbeiのシャム便り

タイ在住の年金暮らしの専業主夫のジジイで、タイ生活/日記一般を綴っていきます。

昭和の日?、昭和は遠くなりにけり。

4~5日前のこと、(日本はGWでどこも人で一杯だろう)などと思いながらSNSを見たり、カレンダーを覗いていて、ふと面白いことに行き当たった。5月4日が「みどりの日」と

なっていたからだ。私の頭の中にあった「みどりの日」は、以前は昭和天皇の誕生日が

4月29日で、この日が天皇誕生日だったが昭和天皇が崩御され、時代が「平成」になる

と「みどりの日」になった筈であった。 下記写真はGoogleより借用した。

下記はGoogleで調べたことだが、私が覚えていた「みどりの日」は2007年(平成1年)

以前までで、私がタイ赴任から帰国したのが2004年で、帰国と同時に職場が開発部から

海外企画部に変更とばり、以後年に半年は上海に出張していたため、休日には敏感

だったが国民の祝祭日など全然気が廻らなかった時で、挙句に2006年暮れからタイに

赴任しているから猶更である。 明治の俳人中村草田男の歌に「降る雪や 明治は遠く

なりにけり」と言うのがあるが、この歌の借用で岡本全勝氏の歌で「散る桜 昭和は

遠くなりにけり」とあり、私にとって昭和が私の全てだったような気がする。この

歳になって色々と思い出すが、悔いがなかったかと言えばうそになり、悔いばかりの

人生だったような気もするが、昭和と言う時代が私の全てだったような気もする。

私が小学校の頃は、遊び場と言えば浅間神社(富士宮市の)の境内や小学校の校庭やら

で、お袋にねだって貰った5円玉を握りしめて行くのは近所の駄菓子屋で、その駄菓子

屋がまた餓鬼どもの集合場所だった。 写真はGoogleより借用した。

中学性になったからと言っても、特に何か変わったことがあったわけでもなく、時代が

大きく変わったわけでもなくテレビなんかもまだなかった時代で、金持ちの子供に

話を聞いたりしていたが、中学3年ともなると塾に通うようになった。この頃私は中学

を出たら就職しようと本気で考えて、その旨先生に言って進路相談の時にお袋に言われ

オフクロに泣かれてしまったことがあった。良かれと思ったがこれには参って、オフ

クロの顔を見ることができなかった。この頃はホンダのバイクがものすごい勢いで

世界に出て行った時だったと思っているが、本当に目覚ましかったと思う。

写真はGoogleより借用。

この頃の娯楽と言えばせいぜい映画で、東映のやくざ映画とか日活の青春ものなんかが

流行っていて、この頃だったか吉永小百合や浜田光男などの映画がはやっていて、私は

その頃吉永小百合ファンでサユリストだったが、その内栗原小巻がよくなってコマキ

ストに鞍替えした覚えがある。写真はGoogleより借用。

高校には何とか進んだがこの当時娯楽なんて殆どなく、レコードを買ったり映画を見た

りするだけだったが、私はビートルズがあまり好きではなくローリングストーンズや

ベンチャーズファンだった。この頃は娯楽と言ってもテレビくらいで、我が家には父親

がいなく貧乏だったからテレビもなく、弟は日産の学校(保土谷)に行っていたので、

オフクロと私の2人暮らしでこれと言った楽しみはなかった。その内叔母(おふくろの

妹)の家からテレビの中古のおさがりを貰って、それが唯一の娯楽だった。高校へは

行かないと考えたが先生とお袋に強く言われ、普通高校ではなく工業高校に進んだが、

この時の友達とは腐れ縁と言うやつで今も交流がある。高校を出て就職を決めた私は、

通勤したり下宿をしたりしながら過ごしており、相変わらず高校時代の友とはつるんで

いてボウリングへ行ったり、待ち時間にビリヤードで遊んでいた。

写真はGoogleより借用。

当時は友達もマイボール・マイシューズを持っていて得点を競い合ったが、少しづつ

ボウリング場ができると、値段もいつしか1ゲーム4000円までに高騰しそれを機に

止めた。一方ビリヤードの方は家の近くにビリヤードの店があって、休日で暇な時には

入りびたっていたり、職場の先輩と通勤の帰りによく遊んだ。私が遊んだのは「4つ玉

ビリヤード」で、「ポケットビリヤード」(スヌーカーとは台も球数も違うらしい)が

こちらについてはルールは全く知らない。下の写真はGoogleより借用。

私は高校卒業後、現静岡市にある自動車部品の製造会社に勤務し、たまたま最初の下宿

先で一緒になった当時の設計課長から、下宿先で質問(面接じゃないが)され人事の選考前に唾を付けられ(?)設計に配属されたが、当時カローラの一代目が世に出た時で 

まさに日本のモータリゼーション幕開けの時だった。写真はGoogleより借用。

就職したての私に金などあるわけがなく、それでも数年してある程度貯金ができた時。

中古の車を買った。先輩から賛否両論あったが、スバル1000スポーツと言う車で、空冷

水平対向エンジンで、エンジンをかけるとボコボコと独特の音がして気に入っていた。

写真はGoogleより借用したものである。

この頃から日本の自動車産業はまさに開花期を迎えたのではなかろうか。こちらの

スカイラインはまさにプリンス自動車の名車と言われた、ハコスカ(スカイラインGTR)

とケンメリ(愛のスカイライン)で一世を風靡した車だ。

仕事は一生懸命やったもので、今でこそ問題にされるだろうが徹夜残業など気にもせず

月80時間なんてざらだったが、仕事の虫と言う程の物でもなく、残業を8時までやって

その後「東回しで半荘4回」なんてルールで雀荘に行っていた。昇級試験(係長)の

書類提出の前日にこれをやり、当日ウッカリして上司にこっぴどくやられたりもした。

写真はGoogleより借用した。

実のところこのころまで一生懸命だったのに、社内のバンドに参加していたことが

あってその活動もあってなかなか忙しかった。特に冬場は寒かったが結構ダンスパー

ティーなんかで呼ばれもした。私はテナーサックス担当で、ラテンなんかをやっていた

なんかをやっていて、家に帰らなかった(帰れなかった?)こともあり、オフクロには

心配かけたと思う。この頃演奏会に行くのに機材を積む車がなくて困っていたが、メン

バーの知り合いに葬儀社の車を都合できる奴がいて、こともあろうに会社の友人の結婚

式で演奏を頼まれ、この葬儀社の車で式場に乗り付けたことがあって、冷や汗をかいた

ことがあったが、それは楽しい思い出である。

最初に結婚したのは26歳の時で、社内結婚で社宅に6~7年いただろうか。

これは一番下の息子の7・5・3の祝いの時の記念写真だが、この時は静岡の郊外に

小さいながらの家を建てていた。

わたしにとってこの頃が一番輝いていた時だったかもしれなく、時を巻き戻すことが

できるのならこの時期に戻っていま一度やり直したい事が一杯ある。