Jinbeiのシャム便り

タイ在住の年金暮らしの専業主夫のジジイで、タイ生活/日記一般を綴っていきます。

一時帰国して実家の整理・・・続編

19日は丸一日かけての移動だったもののほぼいつも通り目覚め、久し振りの朝湯に

浸かった後、チューハイを1本空けて階下に降りてゆっくりと朝食。 弟が迎えに来る

前にホテル周辺をちょっと散策。

いつもは新富士駅と実家の往復のため富士宮駅など来ないので、近くに富士山世界遺産

センターなんてあることは知らなかったが、行くつもりもないがこれからも行く機会は

ないだろう。

こちらは駅前の富士急のバス乗り場だが、こんなPRをしているバスも何台かあった。

富士山世界遺産センターより、「頼朝の富士の巻狩り」の方が小さいころから馴染んで

いる謳い文句だ。「駒留めの桜」だの「曽我兄弟の仇討」など懐かしい。

まずは実家に行って、どれだけの荷物があるか確認するが、本については既にまとめて

あったので着るものの整理からだが、時間を見て帰りのためにコロナの陰性証明証を

念のために入手しなければならない。(領事館は必要ないと言っていたが、娘が調べた

限りではTGでは必要らしいとのこと・・結局は必要なかったが)

私がが持って帰りたいと思っていたものを一通り確認したが、とてもじゃないが私が

運べる量ではないため、クロネコヤマトに依頼して発送することにして、まずは陰性

証明の入手からだが、この小さな田舎町で陰性証明を発行するところは少なく、3つ目

に行ったウェルシア薬局で検査できるということで予約するが、PCR検査ではなく抗原

定性検査だというし、英文の証明書のフォーマットはないかもしれないが、一応探して

くれるということで予約して出直すことに。

次はクロネコヤマトの営業所へ行き荷物の量やら、箱の大きさなどが不明だが、係員が

海外発送の経験がないということから、交渉の埒が明かず結局諦めて、できる限り荷を

少なくし私が運ぶことにした。

まずは着るものからで、とにかく最優先はオフクロの遺言という程じゃないが、着物を

ミヤさんにやるということで、たとう紙(着物の梱包紙)にわざわざ「ニッちゃん」と

書いてあったので、弟から売ってしまうわけにいかないから、何とかして

くれと連絡があった。面倒だから売ってもいいと言ったら、上物らしいのがあったが、

それでもせいぜいが350円でしかなかったと言っていた。親戚のおばさんに引き取って

もらったものもあったが、たとう紙に宛名まで書いてあるなら持ち帰った方がいい

ということで整理したが、幸い着物は2着で羽織が5着なので何とかなりそうで、後は

空いたスペースにどれだけの荷が詰められるかである。

私の着るものはせいぜい3着くらいに減らし、後は綺麗なものは寄付することにした。

被災地向けとか後進国向けとか色々あるらしいが、活かされるなら越したことはない。

ここで丁度区切りがいいので、昼食がてら陰性証明を貰いに検査に出かけた。

結果は「陰性」でOKであり、幸い英文のフォーマットもありすぐに発行してもらった。

午後からは本だが、数冊選んで手荷物とスーツケースに分け、後は弟に任せることに

したが、「ブックオフ」あたりに出しても文庫本だと100円以下だそうで、北方謙三の

全巻揃った「三国志」など下取りに出すのは勿体ないので、それも弟にお任せである。

次はアルバムであるが、アルバムも写真を沢山持って帰ってもろくに見もしないし、

かといって弟に処理させるのも大変だが一冊だけに絞り処理は頼んだ。

写真って見始めるときりがなく、どうしようか迷ったのがこちらだが、一時期私も一生

懸命になったのがこの警察犬訓練の写真である。警察犬の訓練て、犬を訓練するのは

飼い主で、犬も警察犬〇級合格ということになると、訓練した本人も警察犬訓練士の

資格ももらえるのである。(私が通っていた訓練所では)

その写真集がこれでその時の犬はもういないが、大型犬のピレネー犬だった。

もう一つはこれはどうするか本当に迷ったが、今更という思いもあったが、これ一枚

なのでまさか焼き捨てるわけにはいかないと思い、持ち帰った元家族の写真である。

これをタイに持ち帰ってどうするか、もの凄く複雑な思いに囚われた。

私のが終わると弟が、「おふくろのもあるけど焼き捨てるしかないから、欲しいのが

あったら持っていけ」と言うので、10枚くらい貰ったが、面白い写真があったので

もらってきた。オフクロの父親の弟に当たる人で海軍将校として乗船していて、太平洋

戦争中にミッドウェー海戦で沈んだ重巡洋艦「摩耶」の写真である。

右下に大巡洋艦「摩耶」とあるが、左下に検閲済「不許複製」とあるが、オフクロは

この写真をその叔父からもらったのだろうか?

これで殆ど完了したが、その後弟が押入れを開けて「これをどうするか困っている。

欲しいものがあればもっていってくれ。」と言われたが、人形やら工芸品やらの土産

物で中には私が持ってきたものもある。

「土産物なんて食べるもので十分だよな。こうやって残されると処分に困るし、まして

人形って魂が宿るなんて言われると処分に気が引ける」と言い始めたが、任せることに

したが、分別廃棄にうるさい田舎でどうして捨てるのか気になる。燃やしたら燃やし

たで火事の恐れがどうのと煩いらしい。

ここまでですべて家の片付け(私の物の片付け)は終わったものの、私の荷物は半分

以上減ったが、逆に弟に押し付けたものが倍以上になってしまって申し訳ないが、弟も

仕方ないと言って諦めてくれた。

あくる21日はオフクロの墓参りとか、一応親戚のおばさんには挨拶に行ってタイに

戻ろうと決めてある。  長くなるため今回もここで終わります。続きます。

一時帰国して実家の整理をしてきた。

ようやく念願が叶って、19日から22日まで一時帰国をし、やっと実家の整理をする

ことができた。

19日はスワンナブームを7時35分発のTGに登場するため、シラチャを5時に出発で

あり、空港までは息子が送ってくれたのだが、ミヤさんと娘までついてきてくれた。

チェックインは6時半一寸前だが、出国検査で思わぬ出来事に出くわした。パスポート

を提示したところ、帰りはいつだと聞くので「22日だ」と答えると、「分かった、中に

入ったらすぐ後ろを廻って突き当りでパスポートを提示するように」と指示された。

何のことやらわからぬまま指示されたように動くと、「RE ENTRY PERMIT」と書かれた

場所の事務官にパスポートを提示すると、何やら書類を渡されさらに移動させられ

そちらに行くと1200B払えという。カードは使えないから中に入って両替して来いと

言われるが、なぜと考えるが「RE ENTRY PERMIT(再入国許可証)」がなぜ必要か?

との疑問がわくが、とにかく時間がない。1200Bを支払いパスポートに「RE ENTRY

PERMIT」が押されてOKを貰ったのが7時25分。

ボーディングタイムはとっくに過ぎ、出発時刻は7時35分とギリギリで焦ったのなん

の、幸い登場窓口は近くだったが行ってみると、なんと漸くエコノミーの搭乗が

始まったばかりのようで余裕で間に合った。(出発は15分遅れのようだった)

さて自席についてすることもなく前後のことを考えると、どうもOビザだけでは出国

した際に再入国許可証が必要らしい。(左のページだけでは、タイにいることはでき

ても、出入りはできないみたい)だから再入国許可証だが、それもマルチではなく

シングルだから来年6月までは、一時帰国するとなると更にまた同様のこととなる。

さて成田には予定通り到着したのだが、今度は検疫窓口で思いのほか手間取った。

私は事前に家でMY SOSのアプリをダウンロードしてあり、それを提示したらQRコード

の入手のところまで進めたのだが、その準備をしてない人が多く、詰まっては前進の

繰り返しでとにかくイライラが募るばかり。何とか入国審査を通過し税関を通って

荷物を手にしたのが5時近くで、急ぎスカイライナーに乗り込む。驚いた いつもは満席

に近いのに一両に4~5人しかいないのである。

東京を6時半頃の「こだま」に乗って新富士に降りたのが7時半である。

新富士には弟が迎えに来てくれており、富士宮まで弟が送ってくれるのだが、実家は

既に電気・ガス・水道は止めてあるため、実家に帰るわけにはいかず弟に頼んでおいた

ホテルに直行である。ホテルは富士宮駅前の「KURETAKE INN」という呉竹グループ

のホテルで、安いし駅に近くだしここは気に入った。(気に入ったところで、もう

来られないかもしれないが)

ここには夕食はなく、近くにセブンがあるので夕飯はセブンの総菜などを買って済ま

せるつもりで外に出たのだが、折しも「富士宮まつり」の準備らしく、町内ごとの

「山車」を出す準備でもしているのだろうか、商店街の提灯がいくつも出ていた。

※富士宮まつり

 浅間神社の大祭で11月3日~5日かけて行われる。市内の町内ごとに山車が出て山車を

引きながら、よその町内までくると山車を中心に連の踊りを披露するのである。

私も小学校に上がる前後に、浅間神社の広場で踊りの練習をし、その時分は今よりも

ずっと寒く、練習が終わると寒くて家に駆け戻って、炬燵に潜りこんだものである。

                  長くなるため、続きをお楽しみに。

やっと実現する一時帰国

実家のオフクロが亡くなってもうじき3年になるが、最近は略式なのか3周忌の法要は、

何かの法要と一緒にやったため、取り敢えず今年の仏事はないが、そうは言っても

これが最後となるかもしれないから、オフクロの墓参りだけはしてこようと思う。

オフクロが一人住まいだった実家は、弟が暇を見つけて何とか片付けてくれたが、私の

物は片付けられないため、未だそのまま残っている。

大した財産はないけれど、遺産相続の問題は一応メールや郵便やらで解決しているが、

実家の片づけだけは残ったままで、何回か一時帰国を計画したものの、コロナの

第6波だ第7波の騒ぎで、延び延びになっていたが、日本政府の規制の緩和やタイ

政府の入国規制緩和等でやっと行ける状態になった。

しかしいざ帰国となると、今度は私の気持ちが今一踏ん切りがつかず、ミヤさんに

せっつかれてやっとその気になった。

何を隠そう2006年にタイに来た時にはタイに骨を埋める気概でいたものの、暫くそんな

思いに触れることがなかったが、現実に実家の整理をするということは、「日本へ

帰っても帰る家はもうない」ということである。そこへきて右目はボケてきているし

血圧は高い74歳の爺が、いつまでも元気で飛行機の旅などできようもないから、弟に

対しても、近しい親類のおばさん達にも、挨拶といっても今生の別れになってしまい、

どんな顔して向き合えばいいのかつらい。

下の写真は、今年の初めに弟が送ってきてくれた、実家の2階から見た富士山である。

この富士山の姿ももう見られなくなるということである。

実は私はコロナの予防接種は一度も受けてなく、今から予防接種をしたところで、

2ヶ月・3ヶ月という時間はなく、陰性証明があればいいので検査を受けることにした。

そうして一昨日(16日)帰国日を19日~22日と決め、ミヤさんと娘にはエアチケットの

手配を頼み、翌17日の朝健康公園でのウォーキングの帰りにパヤタイ病院に寄って

PCR検査を受け、午後3時過ぎには「検査結果は陰性だった。証明書は既に発行された」

という連絡を受け急いで取りに行った。

・・・で、陰性証明は手に入ったが、肝心のエアチケットはどうなったか、ミヤさんに

質すと「陰性なのか陽性なのか分からなく、エアチケットを予約してもし陽性だったら

どうすんの、キャンセルできなかったらどうするの」「馬鹿言うな、コロナじゃないっ

て自分の体は分ってるし、おかしなところもなかったから自信があって行ってきた、

それがチケットが手に入らなかったらどうすんだ」と喧嘩である。

すると娘が「今からすぐチケット買いに行こう」と言い出し、近くにある旅行代理店

なのかチケット販売店なのか判らないが、娘が店に入っていき頼んだチケットを買って

きて「これでいいでしょ」だと。全くやきもきさせて、これが混雑している時だったら

絶対に手に入らなかっただろう。とにかく勝手に決めないで一言先に言え!!である。

ともかくこれで後は出発の準備だけだが、持っていくものは自分の着替えと多少の

土産だけだからとにかく身軽だが、帰りは実家に置いてある私の荷物でスーツケースは

恐らく満杯だろう。

最悪、宅配業者にでも頼もうかと思うが、何はともあれそれで発生する費用にしても

旅費を含めても、日本におられる人には申し訳ないが、現在の円安はタイにいる私には

本当にありがたい。

もし私の荷物の送料が安く上がったら、手荷物の方は土産が増えそうである。

昨日喧嘩したばかりが、あの化粧水が欲しいこれが欲しい、娘までサン・ローランの

香水をと注文してくる。そうなると空港まで送ってくれる息子にも、一寸奮発して

買ってこなければなるまい。まあ久し振り(最後の)の帰国だからしょうがないか。

ヤックのお寺で祈祷をしてもらった。

この数か月、以前に比べてお寺に足を運ぶ機会が多くなった。足を運ぶと言っても

仏事が重なったということではなく、単に観光目的だけだが、娘が結構「お寺好き」の

ためだからである。

昨日も午前中の雨が上がると、ミヤさんが「ピーノ、晴れてきたからお寺に行こう」と

言い出したのだが、私はあまり乗り気ではなく、行きたくない口実を並べたのだが、

娘が「近くでいいところだから行こう」というので腰を上げた。場所的には、

元タイガーズーの脇を北進し、突き当りを北東に向かって凡そ20kmほど行った

ところで周囲はほとんど何もない田舎で、人家ももろまばらなところである。

田舎の一本道を進むと、突然お寺関係の建物が見えだしたが、山門などなくお寺の

物らしい看板が出ていた。お寺の名前はワット「カオ・チョン・ロム」というらしいが

後でシラチャマップで探したが、そんなお寺見つからなかった。

とにかく言われた通り進むとタイの聖獣「シン」に出迎えられ、駐車場に導かれる。

シンってそうあの「シンハー」ビールのシンである。「シン」は琉球に伝わって

「シーサー」となり中国に伝わって日本へは「狛犬」として入って来たそうである。

矢印の通り進むと、駐車場があるのだが、こんな山の中の寺に早々参拝客が来るほど

ではないが、それでも結構車が出入りしていた。

車を降りると、小さなバンガローのような建物が並んでいたがどうやら僧房のようだ。

その横に本堂らしき建物があり、覗いてみるとご本尊?の前に座ってタンブンしている

人たちがいた。

このお寺はよそに比べて珍しく、土産物屋が殆どない。この本堂?の前にテントが

張ってあって、そこで販売していたものはタンブンに必要な、ローソク・線香・リボン

造花等々で、その横の広場の奥を見て驚いた。

そこには大きなヤック像が祀られていて、どうやらここでそれぞれの物を買って

タンブンしているようである。

このヤック像の左右にはさらに脇侍みたいな像が置かれていたが、しかしプラフマーや

ガネーシャは脇侍としてではなく、独立して左右に置いてあるのだろう。

ヤック自身が毘沙門天の脇侍だからだが、そうは言ってもヒンドゥー教については何も

知らないからそれ以上のことは言えない。 こちらが右側の脇侍(?)左端はプラ

フマー像である。

そしてこちらが右側の脇侍(?)右端の祠に入っているのはガネーシャ像。

※ヤックとは・・・インターネットで調べると。

下の写真は、タイに一度でも来た人ならご存知の、ワット・プラケーオ(エメラルド

寺院)のヤック。

※アジアトラベルノート

ところで、この像の拝観場所の隣にテントが張ってあり、その中にお坊さんが二人いて

何やら観光客に祈祷している感じがして、そこにミヤさんと娘が順番待ちしているよう

なので、離れて見ていると手招きされた。近づくと財布を出しておけというので

準備して一緒にいると、やがて順番が廻ってきて、お坊さんの前に行き財布と携帯を

渡せと言われその通りにする。お坊さんは「日本人か?」みたいなことを言い、その後

聖水を私の頭に振りかけ、何か唱えながらローソクの先端で財布に何やら書いてくれ

祈祷してくれた。ミヤさんに言わせると、きっとお金が入ってくるとのことだが、

「きっと」ではなく「必ず近い日」にしてほしいと思う。

今日は10月10日。朝の公園で見つけた大きな合歓の花?

そろそろ雨期明けなのか、雨の降る時間帯が夜から明け方に移ってきて、朝の一時は

降る気配はしているのだが、降るのは大概夜の内に降って明るくなってからまた降り

出す天気が続いている。今日もいつものこと乍ら6時一寸過ぎに起きだし、外の具合を

見ながら健康公園へウォーキングに向かった。月曜の雨模様の天気とはいえ、公園は

いつもの様に体を動かす人達が結構きている。それにしても海辺で緑も多い朝の公園と

いうのは気持ちのいいものである。

いつものコースをいつもの様に歩いていたのだが、コースを3/4周程回ったところで

何気なくコース脇の芝に目をやると、何となく合歓の花みたいな、しかし合歓の花に

したら異常に大きな花を見付け、コースを外れて近寄って見た。

よく見ると白い花弁みたいなのもあるが、それよりも穂先が薄いピンク色をした大きな

刷毛の形をした、合歓の花のような塊が気になって手に取ってみた。

日本にいた時庭に合歓の樹を植えていたのだが、それと比べると縦も横も幅も2倍ある

つまり体積でいえば合歓の花の8個分の大きさのものである。私の手が写っているので

手の大きさから見当を付けても大きなものである。

下がインターネットでググってみた合歓の花である。

花が落ちていた木の樹上を探してみると、2輪ばかり見付けたが合歓の花とは程遠い

花が咲いていた。葉そのものも合歓の葉とは程遠い大きな葉である。

これが何という木なのか調べても解らなかった。

よく観察してみると、すでに落花したのは雌しべとガクが残って、花弁と雄しべが

落ちたのだが、花弁はバラバラになり固まって落ちた雄しべを「大きな合歓の花か」と

思ったようである。

まあちょっとしたことではあるが、何となくいいことがありそうな気持になり、気を

取り直してウォーキングを始めたのだが、8時丁度になるころにはポツポツと降り

始めたので頃合いのため切り上げて帰宅した。

ところで、今日は10月であったが何の日かすっかり忘れていて、あさ「いいことがあり

そうな」なんて気がしたが、とんでもない。

写真の整理をしてブログ投稿の準備をした後、夕方5時少し前に、晩酌の支度をと思い

J-Parkへ買い物に出かけた。色々と籠に入れアルコール売り場へ行くと綱が張って

あって買えないため、丁度きた店員に聞くと今日は売れないと言われた。

仕方ないから帰りにミニBig-Cに寄って、ビールの冷蔵庫前に行くと今日は仏教の日で

アルコールの販売はできないと張り紙が出ていた。

ハテ仏教の日とは何だったかと考えたが、何だったかどうしても思い出せず家に帰って

悔しい思いをしながらネットで調べてすぐに納得した。迂闊だった。

今日はオークパンサー(出安居)だったのだ。

年内の禁酒日はあと1日故ラマ9世記念日である。3日後は気を付けよう。

やっぱりいくら擬態しても日本人は日本人、うっかりどころではなく、日常の生活の

中で仏教に関わる日など頭に入っていないのだ。

擬態

タイにはヤモリはどこにでもいて、何も家の中ばかりではなく屋外にもいて、しばしば

郵便受けの中や、マンゴーの樹の木陰に隠れていたりする。部屋の中にいるときは壁の

色に似せたりしているが、マンゴーの樹などにいるときは見事な擬態を見せてくれる。

この写真に写っているのはトカゲではなく、チンチョック(ヤモリ)である。

ところで私は。2006年にタイに舞い戻り2007年8月に再婚し。20011年に今の家を手に

して終の棲家にしたのだが、日本にいるときに比べてサバイサバイで暮らしているが、

「マイペンライ(問題ない)」と「アライコーダイ(どうでもいい)」に関しては、

どうしても馴染めない部分がある。

【マイペンライ】

時々娘の部屋を覗くのだが、いくら娘と言っても若い女の部屋だから勝手に入るわけに

はいかないので、見た後ミヤさんに注意するのだが、「マイペンライ、娘の部屋だから

娘に任せておけばいい」という。しかし25歳を過ぎた若い娘の部屋がこれでは、

みっともないだろうと言うが、結局いつも私がミヤさんに小言をいうだけで終わって

しまうが、時たまミヤさんの雷が落ちるときがあるがやっぱりマイペンライの世界の

住人らしくサバイサバイのようだ。

【アライコーダイ】

日本はごみの捨て方に関し、本当に徹底しているが、それに比べればまさにタイは

「マイペンライ・アライコーダイ(問題ない、なんでもいい)の世界である。

ミヤさんや娘が飲み終わったアイスコーヒーをそのままごみ箱に捨てるが、そのたびに

残った氷や水はキッチンの流しに捨て、容器やストローをごみ箱に捨て直している。

ペットボトルは中身をカラにして、ボトルを潰して捨てなおしているいるが、ミヤさん

に言わせればそんな必要はないという。しかし空気を捨てるのは気持ちが悪い。

ビール瓶などは溜めておいてまとめて捨てるが、それもゴミが収集されれば同じに

なってしまうと言われる。

確かにその通りで日本のような仕組みを作らなければ、何もかも一緒くたのゴミに

なってしまっているのが今のタイである。

【微笑みの国】

タイに来たばかりの頃は、「微笑みの国」という言葉に何となくほっこりしたことを

思い出すが、いつの頃からか「腹のでは何考えている?」と思うようになった。

騙されたことが重なったからかな・・・・。

タイには13通りの「微笑み」があるそうな。

1.「とっても幸せ。だから泣いている」といった類の微笑み。

2.「あまりよく知らない人」への丁寧な微笑み・・・空港や街で出会う微笑み

3.「あなたは素晴らしい」といった類の微笑み・・・カラオケでの煽ての類か?

4.「冗談が面白くなくても笑わなくてはいけない」カラオケバーのオネエサンの

                        ひきつった微笑み

5.「心の中にある悪意」を示す微笑み・・・付き合いが長くなったら要注意の微笑み

6.「だからそういったでしょ!」といった類の微笑み

            「あの娘は止めた方がいいと言ったでしょ!」

7.「事の善悪は分かっている。でも嘆いても仕方がないでしょ」といった類の微笑み

8.「悲しみを表す」微笑み・・・カラオケの帰り際に多く出くわす。

9.「あなたに借金しているのは分っている。でも返す金がない」といった類の

                              作り笑い。

10.「分かるけどあなたの意見には賛同できない」といった類の微笑み。

11.「私の勝ちよ!」といった類の微笑みで、敗者に向けてなされる微笑み。

12.「勝ち目のない闘いに直面した」ときの微笑み

13.笑おうとするけど顔がこわばってしまう微笑み・・・チップが思いのほか少ない

いろんな微笑みがあるが、これらにどう「微笑み返し」してあげようか。

 

ヤモリの擬態について書き始めたが、取り留めなく詰まらない方へ行ってしまった。

シラチャに住み着いて15年、その前の駐在期間を入れれば20年近くタイにいるが、

タイ人っぽくしようがタイ語を話そうが、やはり心には日本人が染みついているし、

いくら擬態したところで顔は日本人である。

歯医者へ行きたくなく、自分で抜歯。

見苦しい写真が挿入されているので閲覧注意してください。

私は幼い時から歯は丈夫な方ではなく苦しんできた方で、それでいてトラウマという

か、小学校に上がる前後で怖い思いをしたからか、成人になってもよっぽど酷くなら

ないと歯医者には行かなかった。

その思い出とは、上の歯茎の付け根から歯茎を突き破って歯が前方に向かって出てきた

ため、母親に歯医者に連れていかれ、麻酔を打たれてその奇形の歯(骨?)を除去した

のだが、それ以来歯医者は怖くて駄目である。

そのため虫歯になっても放っておいて、今ではインプラントを6本も入れている。

さてもう3か月も前であろうか、下の犬歯の奥の歯が痛み出したのだが、原因は歯の

間に食べかすがよく詰まるので、爪楊枝を使っていたがそのためか歯にガタが来たら

しく、グラグラし始め歯茎が腫れて痛み出した。

グラグラし始めると隙間が出てきて食べかすが詰まる、爪楊枝を使う、歯が痛むの繰り

返すうちに、先月の中ごろには歯が浮き上がってきて、ものを食べるのが大変になって

きた。

グラグラした歯がこれだけ浮いてくると、ものを食べて嚙み合わせた時、上の歯と下の

歯の間に固いものが挟まった時や、うっかり上の歯が下の歯を前方に押し出した時など

もう飛び上がるほど痛く、これは歯医者へ行って抜歯してもらうしかないと思った。

しかしである、指で触ってもグラグラが大きいので、タコ糸か釣り用のPEラインで

括って抜いてやろうと思ったのだが、どうも指で思いっきりこじるように倒せば抜ける

かもしれないと覚悟を決めてやってみた。自分でやるのはかなり勇気がいることだが、

さてやってみると麻酔を打っているわけではないため、飛び上って小〇をちびるほど

痛く、思わず叫び声をあげてしまい、娘が飛んできてが呆れて見ていた。

しかしあっという間で血は出たが、抜いてしまった後は一寸痛みが残っただけだった。

一日経った後はもう何ともなく、サバイサバイである。

これが抜歯した歯である。

私ももう74歳。歯が1本ないからと言って特に困るわけではないし、その奥はインプ

ラントだから隣の歯がガタつくことも少ないだろう。

良かったのは抜歯した後の、歯茎に菌が入って腫れるようなことがなかったことだ。

爪楊枝はなるべく使わないようにしよう。