Jinbeiのシャム便り

タイ在住の年金暮らしの専業主夫のジジイで、タイ生活/日記一般を綴っていきます。

故義父の母(義祖母)の葬儀でブリラムへ行ってきた。

月曜日(8日)の朝階下に行くとミヤさんが、神妙な顔をして「ピーノ、クンポー

(お父さん)のお母さん(義祖母)が今朝4時頃死んだ。まだ詳しいことは分らない

が、焼く(荼毘に付す)のは土曜日みたい。」と言われた。まあいつになるにしても、

葬儀には顔を出さなければならないだろうが、ブリラム(県)まで行くとなると、片道

6時間半はかかり約450キロあるから、1日で往復ってわけにはいかないだろうが、どう

するかは義母からの指示待ちになるだろう。故義父の実家というのは、ブリラムの片

田舎でノン・キーという24号線沿いの小さな村である。

バンコクからだとサラブリ経由となるが、シラチャからだと義母の家経由でカビンブリ

経由となると片道6時間半にもなり、この年で運転となるときつすぎる。(蛍光ペンで

塗りつぶしたところは、過去に自分で運転していったところ)

結局義母から連絡があったのは水曜日になってからで、金曜の通夜に顔を出しそのまま

泊って土曜の火葬までいるが、火葬の終了時間によってはもう一泊とのこととなるが、

金曜は10時にはチャチェンサオの義母の家を出ることになり、運転は義兄がするとの

ことで胸を撫で下ろしたのは言うまでもないが、我が家を出るのは8時である。

日帰りでチャチェンサオへ行く程度なら娘も一緒なのだが、我が家には犬が4頭も

健在なため、こういう時には本当に頭を悩ませ、結局娘は当然のように留守番である。

義母の家に着いたのは10時ちょっと前で、とにかく義兄の車に乗り換えて10時半には

何とか出発できた。

朝飯前の私には義母の配慮で小包を渡される。中身はレバーの揚げ物と カオ二ャウ

(糯米)で、箸など必要なくこういう時は本当に便利である(手づかみでもベトツクことがなく、ティッシュでふくだけで済む)。

義母の家からはすぐに304号をひた走るのだが、途中から33号線への連絡道路に入るが

どうやら、304号は東部経済回廊の開発途上であちこち拡幅工事中のため、渋滞回避

らしいが私の運転ではこんな機転は働かない。

33号に一旦は逃げたものの、カビンブリで304号に戻り、暫く行ってカオヤイ国立公園

の端っこを通って急な峠道に入るのだが、ここは以前は下手をすると片側一車線の交互

通行となるような難所であった。今は道幅も広くなり急斜面は緩やかな傾斜になるよう

になったものの、それでもやはり大型トラックが前にいると大変であり、このころに

なると雨もぱらついてきて運転は慎重にやっていた

小雨がぱらついている中、一時半過ぎには24号とのジャンクションのあるパク

トンジャイで右折してブリラム方向に向かう。ここまでくれば一直線で一時間半ばかり

でノン・キーにつく。

ここからは完全にイサーンの風景で、24号沿いの小さな部落は

あるもののその向こうは田んぼと畑と雑木林が続いているだけである。

そして何とか故義父の実家についたのが3時少し前。しかし驚いた。

何と4年前に来た時と敷地が随分と大きくなっている。女手だけの家なのに、どういう

金の儲け方をしたのか敷地が横に倍ほどになっていた。

まあ人の家のことを詮索しても始まらないが、取り敢えず故義父の家族に挨拶を

済ませ、義祖母の祭壇に義母・ミヤさんの順に線香をあげる

4年前に来た時にはまだ元気で、大柄な体でかくしゃくとしていたがさすが89歳で

死因が癌だそうで、痩せ細った写真で見る影もなかった。

ミヤさんと私の2人はこの家に泊まるわけも行かないので、別にホテルを予約して

もらったのだが、過去に何回か泊まったことのあるホテルはレストランに模様替えした

ようで別のホテルとなったが、それでも一泊500Bだから安いもんである。

ホテルを確保した私とミヤさんは、早速夜食のビールとつまみを買いにタラートへ

買い物に出かける。田舎のタラートなので、本当に安いが品物は同一品質とは程遠い。

7時から坊さんが来て式が始まるということで、ホテルにいったん戻った後ぶらぶら

歩いて義父の実家へ行くと、まだ6時なのに早い人たちはもうきていて談笑していた。

さて何とか7時まで時間をつぶしていると、小雨が降り出した中坊さんが4人やって

きて会場の席についていよいよ式が開始である。一番左の男性が式の進行を取り

仕切っていて、読経などもこの人の音頭で進んでいく。私の席はというとその男性の

斜め後ろである。

そうしてこの男性の指導よろしく式は進み、お坊さんの読経も滞りなく終了だ。

最後に、お坊さんたちへの喜捨が始まったのだが、その喜捨をする者の名前の中に

私の名前があり(私は知らされていなかった)びっくりした。こんな田舎の葬式に

日本人は私一人であり、集まった人の中には好奇の目を向けてくる者もいるという

のに、名前まで呼ばれて坊さんの前に立った時どうしたものかと戸惑ってしまったが、

ミヤさんたちのまねをして何とか済ませた。

7時半には式は終わり食事を済ませてホテルに戻ったのが8時半。まだ翌日があるが、

それは続編で報告する。

ところでこの日8月12日はタイの母の日(皇太后の誕生日)であり、私の誕生日でも

あり、私たちの結婚記念日でもあって、普段ならセレブレーションデイで何かしらの

祝いの日であるのだが、今年はそんなものどこにもなかった。別に74歳の誕生日など

冥途に近づいただけで嬉しくもないからどうでもいいのだが、今まででこのような日は

初めての経験で忘れられないかもしれない。